戦死した大叔父の話
戦後70年だから、というわけでもないが、
気が向いたので、太平洋戦争で戦死した大叔父の話を書いてみようと思う。

大叔父というのは、母方の祖父の弟にあたる人である。

母方の先祖代々の墓は、海を見下ろす丘の中腹にある。
一番立派な墓石が大叔父のものなのだが、側面には以下のように書かれている。

昭和十九年八月十九日
比島海域ニ於テ戦死
陸軍軍属 ○○○○(俗名)
大正xx年x月x生 xx才


大叔父はどのような海戦で亡くなったのか、
日付から調べてみることにした。

検索してみたところ、1944年8月19日に沈没した船は下記の2つ。

玉津丸(揚陸艦) - 玉津丸 - Wikipedia
速吸(給油艦) - 速吸 (給油艦) - Wikipedia

いずれもフィリピンへ向かう途中に、米軍潜水艦によって撃沈されている。
玉津丸には陸軍第26師団の将兵が多数乗り込んでおり、
撃沈の際ほとんどが戦死したそうである。
たぶん、大叔父もこの中の一人だったのだろう。

運良く生き残ったとしても、レイテ島の戦いなどで生還することはなかったように思う。

曾祖母(大叔父の母)は、
自分たち夫婦のものより立派なお墓をつくって息子をとむらっている。
また、家には大きな額に入った遺影がある。
(写真にはイカリのマークが入っている……海戦で亡くなったせいか?)

曾祖母は90歳ぐらいまで長生きしたが、
孫やひ孫に戦争のことを話すことは一切なかった。

それは祖父も同じで、死ぬまで弟のことを話すこともなかったし、
技術者として満州に渡っていた頃のことを話すこともなかった。
(親戚から又聞きしたところ、日本に戻るのは相当苦労したらしい)

ともかく、海に眠る大叔父を直接知っている人は、
たぶん全て亡くなっている。

伝聞で知ることができるのも、自分たちか、
自分たちの次の世代ぐらいまでではないだろうか。

父方の祖父は軍人として満州に出征していたが、
同様に死ぬまで戦争については語っていない。
ただ、勲章や軍服姿の写真は残っている。
どういう意図で残していたのかは、今となってはわからない。

今更言っても仕方ないが、
せがんででも聞いておけば良かった、と思う。

第二次世界大戦や太平洋戦争がなんだったのか、というのは自分の中でぼんやりとしかわからない。
資料はいくらでもある。
ただ、実際の体験も知っておきたかった、と思うのである。
| 雑記 | 14:20 | comments (0) | trackback (0) |
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