大正12年(1923)からは東京が単独地区として独立、東京中等学校野球連盟を組織した。また慶応普通部はこれまで慶応商工との合同チームで大会に参加していたのだが、他校からの分割せよとの声に反発、連盟を脱退し、加盟校は7(早稲田実、目白中、豊島師範、早稲田中、麻布中、明治学院、大成中)となった。
この年の東京大会は春・夏の2期にわたり総当たりのリーグ戦を行い、最も成績の良いチームを代表校とする形式に改められた。優勝したのは早稲田実。他の6校を一蹴し、2期とも6戦全勝。最大のライバルが去った後では当然の結果だった。
大正13年には大阪毎日新聞社主催の第1回選抜中等学校野球大会が開催。現在も選抜高校野球大会、「春のセンバツ」として親しまれている大会である。「昨年最も強かった」8チームが選ばれ、4月1日から名古屋・八事(やごと)山本球場で激戦を繰り広げた。
選抜基準は現在と同じ秋の大会のほか、当時毎日の抱えていた野球チーム「大毎野球団(のち毎日オリオンズ、現千葉ロッテマリーンズの母体)」との対戦成績も参考にしたようである。
栄えある8校は以下の通り。
なお、旧制中等学校を含む高校野球の全国大会が名古屋で行われたケースは、今のところこれが唯一である。
大正13年に特筆すべき出来事といえば、甲子園球場の誕生は外せない。これまでにない規模と集客力を誇るマンモス球場は、春から夏にかけて急ピッチで工事が進められ、全国中等学校野球大会直前の7月31日に完成した。大会は鳴尾球場から甲子園に舞台を移し、ますます発展していくことになる。
東京地区の予選形式は昨年と同じ2季のリーグ戦で、早稲田実が優勝、3季連続の全国大会出場を果たした。
大正14年には連盟から脱退していた慶応普通部が慶応商工と分離して加盟、参加校は11となった。予選は早稲田実と目白中がともに9勝1敗で並んだため代表決定戦を行い、またも早稲田実が優勝した。リーグ戦形式の予選は、グループに分けられるなど細かい変更を経て昭和5年(1930)まで続けられた。