大正の初期、箕有電軌(現・阪急電車)がつくったばかりの豊中グラウンドでは関西学生野球大会が行われていた。この大会は東は愛知一中、西は愛媛の松山中も参加する大規模なものでありながら、運営も順調に保たれていた。主催者の一人である早大選手の佐伯達夫や旧制三高の小西作太郎、高山義三は「全国規模で各地の強豪チームを集めた大会ができるのではないか」と構想を練っていた。
佐伯の他にも、中沢良夫工学博士など著名な野球人らが全国規模の大会の構想を立てており、彼らが話を持ちかけたのが朝日新聞社社長・村山龍平だった。
しかし、朝日は明治44年(1911)に東京新聞社上で「野球亡国論(野球害毒論とも書かれる)」を長期連載したばかり。タイトルは過激だが、内容は野球に熱中するあまりに学問がおろそかになる学生たち、また興業化する学生野球に警鐘を鳴らし、諸問題を浮き彫りにしたもので、決して一方的に野球を排斥していたわけではなかった。
ともかく村山は一度は断ったものの、中沢らが「本来、野球は心身を鍛えるのに適したもの。野球の害毒をなくすには朝日新聞が全国規模の大会を主催していくのが一番良いのではないか」と説得し、ついに大正4年(1915)、全国大会開催の運びとなった。全国中等学校優勝野球大会、現在の全国高校野球選手権大会の始まりである。ちなみに、中沢と佐伯は戦後の日本高等学校野球連盟(日本高野連)の2代、3代会長として高校野球の発展に尽力した。
第1回全国中等学校野球優勝大会の社告が行われたのは大正4年7月1日。開催は8月18日と地方予選を行う余裕はなかった。そのため既設の野球大会がある地区はそのまま優勝校を代表校とし、大会のない地区は臨時の予選を行うことになった。
記念すべき10地区の代表校は以下の通り。
東京では3月末に行われた「都下中学優勝戦」を制した早稲田実業が選出され、豊中グラウンドで開催された全国大会でも準決勝まで勝ち進んだ。関東の他県は全く予選に参加できず、とりわけ歴史の古い茨城県や神奈川県の落胆は大きかったという。
この年、早稲田実は全国屈指と呼ばれた臼井林太郎−岡田源三郎のバッテリーを擁し優勝候補と呼ばれていたが、準決勝で秋田中にまさかの敗戦。秋田県は明治32年から41年まで(一説によると明治10年代から)独自の県大会を行っており、その成果が稔ったともいえる。早実夏の優勝は平成18年(2006)まで待たねばならない。
決勝は京都二中と秋田中の対戦。両チーム1対1のまま延長戦にもつれ込み、薄暗くなりかけた13回裏に京都二中のサヨナラ勝ち。劇的な高校野球史の幕開けだった。
翌年の大正5年は地方予選の形式が整えられ、東京を含む関東地区予選で全国大会出場を争うことになった。その内訳は神奈川2校、茨城1校、東京13校の計16校で、決勝は早稲田実と慶応普通部の東京勢の対決となった。早実を下した慶応普通部は第2回全国大会でも実力を発揮、決勝で大阪・市岡中を破って全国制覇を果たす。
この年の慶応普通部のエースの山口昇は、慶大にも在籍し早慶明の3大学リーグ戦にも出場する好投手。中学・大学チーム双方に所属するなど今では考えられないことである。他にもアメリカ国籍の一塁手ジョン・ダン、ドイツ人ハーフの投手兼外野手の河野がいるなど異色のチームだった。
大正7年には東京と神奈川が京浜地区として関東から分離。16校が参加した予選では3年連続で慶応普通部が優勝して代表校となるが、この年の全国大会は米騒動で中止となった。京浜地区大会は大正11年まで続くが、すべて東京勢が優勝、横浜商などの神奈川勢を退け続けた。とりわけ慶応普通部は大正5年から10年まで6年連続で優勝し、圧倒的な力を見せつけた。