高校野球の戦績を年代別に分けようとする場合、3つの基準(西暦、元号、大会回数)があるので少し悩んでしまいます。ここは恣意的な判断で大会回数の10回刻みとしましょう。しいて理由を挙げるなら「日本人なので西暦はパス」、そして「センバツの大会回数+10=選手権大会とキリがいい」ところですか。
詳しい年代区分は下の通りです。
年代 | 戦前 | 昭和21-33 | 昭和34-43 | 昭和44-53 | 昭和54-63 | 平成元-10 | 平成11-20 | 通算 |
センバツ | 25チーム 24勝24敗 勝率0.23 | 13チーム 13勝13敗 勝率0.5 | 10チーム 6勝10敗 勝率0.42 | 15チーム 10勝14敗 勝率0.67 | 20チーム 30勝20敗 勝率0.59 | 20チーム 29勝18敗 勝率0.5 | 20チーム 32勝18敗 勝率0.38 | 107チーム 107勝102敗 勝率0.51 |
選手権 | 25チーム 24勝24敗 勝率0.5 | 13チーム 13勝13敗 勝率0.5 | 10チーム 6勝10敗 勝率0.38 | 15チーム 10勝14敗 勝率0.42 | 20チーム 30勝20敗 勝率0.6 | 20チーム 29勝18敗 勝率0.62 | 20チーム 32勝18敗 勝率0.64 | 123チーム 144勝117敗 勝率0.55 |
合計 | 35チーム 27勝34敗 勝率0.44 | 27チーム 26勝26敗 勝率0.5 | 24チーム 16勝24敗 勝率0.4 | 31チーム 38勝28敗 勝率0.58 | 40チーム 57勝39敗 勝率0.59 | 38チーム 46勝35敗 勝率0.57 | 35チーム 41勝33敗 勝率0.55 | 230チーム 251勝219敗 勝率0.53 |
※このグラフ作成にはFusionChartsFreeというライブラリを利用しています。
センバツの勝率は各年代を通して最低。10度出場して初戦敗退が8度とふるわない。大正13年・早稲田実の準優勝が最高成績。
選手権では優勝が1度(大正5年・慶応普通部)、準優勝が2度(大正9年・慶応普通部、大正14年・早稲田実)。しかし初戦敗退も11度あり、合計して5割。
当時は愛知、岐阜の東海勢と京阪神、和歌山、広島、北四国と限られた地域が強い時代であった。東京勢も早稲田、慶応系列校の活躍により健闘しているが、当時の学生野球の中心地としてはやや寂しい成績。
センバツ、選手権ともに勝率はちょうど5割。
センバツでは昭和32年に2年生エース王貞治擁する早稲田実が優勝。選手権ではベスト4が2度ある(昭和21年・東高師付中、昭和26年・明治)。だが安定して上位に食い込むほどではない。
東京勢が最も低迷した時期。センバツ、選手権ともに勝率5割を切る有様。センバツの最高成績は準優勝(昭和37年・日大三)、選手権ではベスト8が3度(昭和34年・日大二、昭和35年・早稲田実、昭和37年・日大三)。
作新学院の春夏連覇(昭和37年)、法政二の夏春連覇(昭和35・36年)など関東勢の健闘も目立ち始めるが、東京は置いていかれた状態。
センバツは各年代で最高成績。優勝、準優勝2度ずつと輝かしい。昭和45年に堀越が準優勝、46年に日大三が優勝、そして47年は決勝で日大桜ヶ丘と日大三の東京対決と、「東京は春に強い」という印象を植え付けたのはこの頃だろう。
しかし選手権では上記の4校とも結果を出せず(日大桜ヶ丘は選手権1回戦敗退、それ以外は予選で敗退)。日大一が43年から46年まで4年連続出場するも全国では合計2勝。これまで東京地区を独占してきた主要大学付属校が苦戦する中、昭和51年に桜美林が初出場初優勝の偉業を達成して気を吐いた。
センバツ、選手権ともほぼ勝率6割と安定して高い成績を残した。夏は東西分裂し、春は毎年2校出場枠を確保していた時期だった。
春は相変わらず強く、優勝1度(昭和59年・岩倉)、準優勝4度(昭和55、60年・帝京、昭和57年・二松学舎大付、昭和62年・関東一)。
しかし選手権大会では旧来の日大勢と早稲田実が立ちはだかる。上記の3チームとも夏は予選敗退し、甲子園を沸かせたのは荒木大輔(ヤクルト−横浜)擁する早稲田実だった。1年生だった昭和55年夏は準優勝、5季連続出場するも大旗には届かず。
また昭和62年は東京勢が最も高い実績を残した年である。センバツでは関東一が準優勝、帝京がベスト8。選手権では帝京・東亜学園ともにベスト4。この1年間だけで全国大会14勝をマーク。
元号が変わり東京の勢力図も変化を見せる。
まず帝京の黄金期と言って差し支えないだろう。前田三夫監督の情熱的な指導が花開き、元年と7年は選手権優勝、平成4年はセンバツ優勝。出場回数はこの10年間だけで春6回、夏5回と東京を代表する強豪に成長する。
また国士舘がセンバツで平成3年・5年と2度のベスト4。創価や東海大菅生といった新勢力も台頭。日大三は平成6年春、早稲田実は平成8年夏に出場したきりで、伝統私学の地位が失墜する。
盤石だった帝京も予選敗退の年が続いたが、平成18年夏からは3季連続出場、いずれもベスト8以上に進出して強豪復活の兆しを見せている。
また都立勢が3度優勝し私立をおびやかすまでに成長するなど(99年・01年の城東、03年の雪谷)、東東京は飛び抜けた存在のないサバイバルレースとなっている。
西東京では小倉全由監督率いる日大三が復活し、平成13年夏に初の全国制覇。15年から17年には西東京大会初の3年連続出場を達成するなど都内では敵なしの状態。そして、その4連覇を阻んだ平成18年の早稲田実業が、甲子園も勝ち進み東京勢として5年ぶりに優勝を果たしている。
このように選手権では歴史上最高の成績を上げているのに、どういうわけかかつてあれほど強かったセンバツではふるっていない。1大会で1勝するのがせいぜいという体たらくで、これでは平成15年から出場枠が1になっても仕方ない。しかし平成18年に早稲田実がベスト8入り、19年に帝京がベスト4入りを果たし、この傾向も改善されつつあるか。