ベースボールが日本に伝わったルートは複数あるが、いずれも外国人教師が学生に伝えた、という点で共通している。明治6年(1873)頃に東京・開成校(東京大学の前身)のホレース・ウィルソン、同じく開成校のE・H・マジェット、開拓使仮学校(札幌農学校の前身)のアルバート・ジー・ベーツ、熊本洋学校のジェーンズなどがよく知られた伝道師たちである。
ウィルソンの教え子にはアメリカ留学から帰国した木戸孝正がおり、彼の持ち帰ったボールとバットを大切に使って学生たちは野球に興じた。その熱中ぶりはすさまじく、雨の激しい日も簑笠を来て運動場を駆け回ったという。投手は下手投げ、道具などはなく、ボールは素手で捕球していた。試合形式の対戦はなく、仲間うちでプレーするか横浜に居留していた外国人と対戦する草野球程度のものだった。
学校以外の野球チームができたのは明治11年。アメリカで野球を修得した平岡熈(ひろし)が新橋鉄道局の同僚に野球を教え、新橋倶楽部を組織、野球が普及するきっかけを作った。明治15年に新橋倶楽部は駒場農学校(東大農学部の前身)と対戦。日本最初の対抗試合はクラブチーム対学生チームだった。
ただし、日本人同士というくくりをなくせば、日本で最初の野球ゲームは明治4年(1871)のことだったと言われる。場所は現在横浜スタジアムのある横浜公園、対戦したのは横浜に滞在していた外国人チームと船員チーム。試合は点の取り合いの末船員チームが14対11で勝った。
きっかけは異なるにせよ、この時期に野球に触れた人々が各地に散らばることで野球が全国に広まったといえる。
明治16、7年頃からは開成校に続き、青山英和学校(青山学院大学)、波羅大学(明治学院大学)、慶應義塾(慶大)など現在の大学の前身に次々と野球部ができた。特に強かったのは旧制第一高等学校(通称一高)で、猛練習で明治20年代から30年代後半まで一高黄金時代を築き上げた。明治29年には横浜在留外国人チームを倒すという金星を上げ、初めて新聞紙上に野球が取り上げられることになった。
明治20年代に入ると、いくつかの中等学校でも野球が普及しており、愛知一中(現・旭丘)や水戸中、東京では正則中や青山学院中等部、独逸協会中学(現・独協)、東京高等師範学校付属中(筑波大付)、郁文館中などが野球部を創部。明治30〜40年頃には各地で数チームが集まって地区ごとの大会が開催されていた。
明治37年、一高が早稲田大、慶應義塾大に敗れ、この両校の勝者こそ球界の覇者と目されるようになった。いわゆる早慶戦の始まりである。しかし明治39年、応援団問題に端を発し早慶戦は中止。以後、大正14年(1925)まで約20年間復活することはなかった。明治40年以降、両大学は外国チームを招いて対抗戦を行うという寂しい状態が続いた。
中等野球は早慶のいさかいとは関係なく盛んに行われ、明治43年(1910)には都下運動記者会主催の「都下中学優勝試合」が開催。参加したのは早稲田中、青山学院中、郁文館中、慶応普通部、独協中、錦城中、立教中、麻布中の8チーム。優勝は早中、慶普の間で争われ、延長10回の激闘の末早中が勝利。このカードは「小早慶戦」と人気を博し、以後、両校は毎年優勝を分け合うことになる。