1871年 (明治4) |
10.30 | 横浜にて居留外国人チームと船員チームが対戦、船員チームが14対11で勝利。 日本で最初に行われた野球の試合とされる。 場所は現在横浜スタジアムとなっている横浜公園。 |
1873年 (明治6) |
開成校(東京大学の前身)にアメリカ人教師ホレース・ウィルソンが赴任、教え子たちにベースボールを広める (赴任したのは明治4年との資料もある) |
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1878年 (明治11) |
アメリカから帰国した鉄道技士の平岡熈が、勤務する新橋鉄道局で日本最初の野球チーム「新橋倶楽部」を結成 | |
1880年頃 (明治13) |
徳川達孝(徳川宗家16代目当主・徳川家達の実弟)が三田に運動場を作り、徳川一門でヘリクレス野球部を組織。 新橋倶楽部としばしば対戦した。 |
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1983年 (明治16) |
虎ノ門の工部大学(東大工学部の前身)に野球部が創設、正岡子規が所属し名投手として人気を集める | |
1985年 (明治18) |
青山英和学校(青山学院大学)、波羅大学(明治学院大学)、慶應義塾(慶応大学)に野球部が創設される | |
1888年 (明治21) |
全国各地にて野球熱が高まる 第一高等中学校(のち第一高等学校、一高)に野球部が創設、猛練習にて黄金時代を築く |
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1889年頃 (明治22) |
一高野球部の影響を受け、東京市内の中等学校が次々と野球部を創部 青山学院中等部、正則中、東京高等師範学校付属中(筑波大付)、郁文館中、独逸協会中(独協)など |
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1896年 (明治29) |
10.17 | 水戸中対宇都宮中の第1回定期戦が開催、確認できる旧制中学最初の試合 |
1897年 (明治30) |
一高出身の文学士・中馬庚が日本初の技術書「野球」を発行、ベースボールの用語を訳す | |
1901年 (明治34) |
早稲田大学に野球部が誕生 | |
1902年 (明治35) |
9月 | 東海5県連合大会開催。愛知、静岡、岐阜、三重、滋賀の5県の中学が参加 他、明治30年から40年にかけて、各地方にて旧制高校主導による連合大会が行われる ・東北 盛岡中、一関中、仙台一中、仙台二中、東北中、相馬中、磐城中 ・東海 愛知一中、豊橋中(時習館)、浜松中、岐阜中、大垣中 ・関西 神戸一中、天王寺中、岡崎中、膳所中、大垣中、彦根中、松山中 ・中国 岡山中、広島中、呉中、広島商 ・山陰 松江中、杵築中、米子中 ・九州 済々黌、熊本師範、佐賀中、柳川伝習館 |
1904年 (明治37) |
6月 | 一高が早大、慶大に連敗し、黄金時代に終止符が打たれる |
1905年 (明治38) |
4月 | 早大が安部磯雄を団長とし、日本初のアメリカ遠征を行う |
1906年 (明治39) |
秋 | 早慶対抗野球試合(早慶戦)が応援団問題で中絶 |
1907年 (明治40) |
10.31 | 慶大がハワイチームを招いて試合を開催、招待費用の捻出のために見物料を徴収する。日本初の有料の試合 |
1910年 (明治43) |
4.1-? | 都下運動記者主催の「都下中学優勝試合」が開催。東京における最初の中学野球大会で、早稲田中が優勝。以後、大正4年まで毎年行われる |
1912年 (明治45) |
7.30 | 明治天皇が崩御、各地の野球大会が中止される |
9.23 | 喪が明け、早大−明大の試合が行われる。これを機に早明慶の3大学リーグが成立。ただし早慶のカードはなし |
1911年 (明治44) |
8.20-24 8.29-9.19 |
東京朝日新聞が「野球の諸問題」を掲載 続けて「野球とその害毒」を掲載。学生野球の不健全化、興業化に警鐘を鳴らす |
1914年頃 (大正3) |
中沢良夫工学博士らが、「野球の害毒をなくし、良い面をアピールするため」に新聞社主導の大会開催を考案。朝日新聞社・社長村山龍平に進言する。 また関西大会を主催していた旧制三高の小西作太郎と高山義三、早大の佐伯達夫らが全国規模の中学野球大会の構想を練り、さらに箕面電軌が新設した豊中グラウンドを提供、全国中等学校野球優勝大会が創始される |
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1915年 (大正4) |
7.1 | 朝日新聞紙面にて、全国大会創設の社告が掲載 |
8月の大会まで間がないため、既存の各地区大会優勝チームが代表校として選出され、大会のない地区のみ臨時で予選が行われた。東京は春の都下中学優勝試合を制した早稲田実が代表校に | ||
8.18-23 | 第1回全国中等学校野球優勝大会開催。京都二中が秋田中を延長13回サヨナラで下し、初優勝 | |
1916年 (大正5) |
各地区で予選形式が整えられる。東京は関東大会に参加、慶応普通部が優勝し、本大会でも優勝 | |
1917年 (大正6) |
会場が阪神電車沿線の鳴尾球場に移る | |
1918年 (大正7) |
7.25-29 | 東京・神奈川が関東地区から分離、京浜地区大会として予選を行い、慶応普通部が3年連続優勝 |
8月 | 米騒動により第4回大会中止 | |
1919年 (大正8) |
8.14-19 | 第5回大会開催。4年連続出場の慶応普通部が決勝進出するも、関西学院中に0−17で大敗 |
1923年 (大正12) |
東京が京浜地区から独立し、単独で出場枠を獲得。また東京中等学校野球連盟を結成し、大会の運営にあたる 慶応普通部・慶応商工の連合チームを分離せよとの声が高まり、反発した慶応普通部が連盟脱退 予選形式にリーグ戦を採用。春季・夏季の2度行い、全勝した早稲田実が代表校となる |
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1924年 (大正13) |
4.1-5 | 第1回選抜中等学校野球大会が、名古屋八事の山本球場で開催 大阪毎日新聞社主催。東京からは早稲田実が選出され、決勝進出するも高松商に0−2で敗退 |
7.31 | 阪神電鉄が甲子園球場を新設、以後春夏の全国大会が開催されるようになる | |
1925年 (大正14) |
慶応普通部、慶応商工が2校に分離して再加盟 | |
8.15-23 | 第11回全国中等学校野球優勝大会にて、早稲田実が高松商に3−5で敗れ準優勝 | |
甲子園の加熱ぶりを受け、東京六大学野球連盟が結成、早慶戦も約20年ぶりに復活 | ||
1926年 (大正15) |
10.1 | 神宮外苑に明治神宮野球場が完成。夏の東京大会の主会場となる |
1929年 (昭和4) |
都内で野球部を新設する学校が増加したが、東京中等野球連盟が加盟を認めなかったため新たに東都中等学校野球連盟が設立され、独自に大会を行い暁星中が優勝 早稲田実が連盟に無断で秋田に遠征し、夏の予選出場停止される |
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1930年 (昭和5) |
予選形式が変更。二連盟が個別にリーグ戦を行い、1位校が代表決定戦を行う | |
1931年 (昭和6) |
二連盟が合同して新たに東京府中等野球連盟を結成、以後昭和18年までの東京大会を運営 加盟校が33に増えたため、予選形式がトーナメントに変更される |
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1934年 (昭和9) |
予選形式が2段階制に変更。加盟校をAクラスとBクラスに分け、まずBクラスのみで1次予選を行い、上位に進んだ数校とAクラスで2次予選を行う | |
1938 (昭和13) |
3.27-4.4 | 第15回選抜中等学校野球大会が開催。東京からは日大三中が出場。早慶の系列校以外では初の代表校 |
6.18-7.29 | 夏の東京大会にて日大三中が優勝、春夏連続甲子園出場 | |
1939年 (昭和14) |
夏の東京大会にて帝京商が初優勝したが、選手に未登録の高等小学生がいたために失格 準優勝した日大三中が推薦されるも出場を辞退、ベスト4の早稲田実が代表校となる |
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1941年 (昭和16) |
戦時体制の本格化により全国大会規模の運動競技が中止 全国中等学校野球優勝大会は予選も含めて中止されたが、東京は大会を行い帝京商が優勝 |
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1942年 (昭和17) |
文部省主催の野球大会が開催。京王商が東京大会、南関東大会を制して代表校に | |
1943年 (昭和18) |
4.6 | 文部省が東京六大学野球連盟に解散を要求 東京府ほか各地の中等野球連盟も解散し、中等野球が事実上消滅する |
1945年 (昭和20) |
8.15 | 終戦 |
1946年 (昭和21) |
2.25 | 佐伯達夫、朝日新聞社社主・上野精一らの尽力により中等野球再開が決定 既存の中等学校体育連盟から野球部門が独立し、全国中等学校野球連盟が誕生 |
7.15-21 | 夏の東京大会にて東高師付中(現・筑波大付)が優勝。国立校として初の代表校 | |
8.15-21 | 第28回全国中等学校野球大会が西宮球場にて開催 | |
1947年 (昭和22) |
3.30-4.7 | 第19回選抜中等学校野球大会が甲子園にて開催。東京からは慶応普通部、慶応商工の2校が出場 |
1948年 (昭和23) |
6・3・3制の学制改革が断行。従来の中学5年生が高校3年生となる 春夏の全国大会もそれぞれ選抜高校野球大会、全国高校野球選手権大会と改められる 全国中等学校野球連盟が全国高等学校野球連盟(高野連)に改称 |
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6.7 | 高野連が「大会参加資格は高野連の加盟校に限る」「高体連による予選は認めない」との通告を発する これを受けて、東京都の各チームは都高体連を脱退、新たに結成された東京都高校野球連盟に加盟 以後、高校野球は完全に高体連の傘下から脱し、高野連の管轄のもとに開催されるようになる |