1946年7月15日、東京は小石川。防空壕の穴も残る東京高等師範付属中(現・筑波大付)グラウンドで球審が「プレーボール」を告げた。この日は戦後初の全国中等学校選手権優勝大会東京予選の初日。対戦カードは付中対攻玉社中。開会式はなかったが、その日確かに平和と野球が戻ってきた。
付中の野球部は戦前甲子園の出場はなかったが、この時彼らには勝算があった。41年から敵性スポーツとして禁じられていた野球だったが、付中では教師らの理解を得て堂々と練習していたのだ。45年5月に空襲を受けて学校が焼失してからはさすがに中断したが、終戦後の9月には再開。その1年後に選手権大会が復活、付中は自信をもって大会に臨んだ。
初戦、攻玉社中は中盤までリードされるも、エース若山が登板して悪い流れを断ち切り、17−6の逆転勝利。運動神経抜群の若山はサッカー部のフォワードも兼任しており、5月に同校を全国制覇に導いたばかり。マウンドでは落差のあるカーブが冴えた。
付中の快進撃が続く。2回戦、早稲田実業に10−0のコールド勝ち、以後帝京商、慶応商工と戦前の強豪私学を倒していく。決勝戦は同じ公立の都一中との対戦。1−1で迎えた6回に相手の悪送球に乗じて2点を勝ち越すと、若山が相手の反撃を1点に抑えて逃げ切り、初優勝を成し遂げた。
当時、あこがれの甲子園は米軍に接収されており、全国大会は西宮球場での開催となった。それでも野球ができる嬉しさに変わりはない。連日満員の球場で、予選と同じく付中ナインは駆け回った。
初戦、小倉中に7−1の快勝。若山は味方の6失策にもめげず4安打に抑えて1失点。準々決勝の松本市中戦は1−2とリードされた9回に2死走者なしまで追いつめられるが、ここで代打・森脇崧が四球を選ぶと相手投手が崩れて5連続四球、逆転勝ちでベスト4に進んだ。若山は無四球で百球足らずのピッチング。コントロールの良さがうかがえる。
準決勝の相手は大阪の浪華商。優勝候補の筆頭で、今度ばかりは相手が上だった。
左腕エース平古場昭二の“滝のような”カーブと快速球に翻弄され、付中は大会記録となる19三振を奪われてしまう。若山は力投するも、156センチの体は連投による疲労を隠せない。3回に一挙4点、7回に2点を奪われ途中降板、それでも平古場から内野安打を放って3番打者の意地を見せた。結局試合は1−9で敗れたが、若山は充分な満足感を得ていたという。
短期間の連投で肩を痛めていた若山は、進学した早大で内野手に転向。しかし小柄な体でプレーすることの限界を悟り野球を断念。卒業後は都庁職員。
戦績 | 対戦相手 | 打撃成績 | 投手成績 | ||
1946年夏 ベスト4 |
2回戦 | 小倉中 | ○7−1 | 詳細不明 | 9回4安打1失点 4奪三振 2四死球 |
準々決勝 | 松本市中 | ○3−2 | 詳細不明 | 9回5安打2失点 4奪三振 0四死球 | |
準決勝 | 浪華商 | ●1−9 | 詳細不明 | 詳細不明(途中降板) | |
総合成績 | 詳細不明 | 詳細不明 |