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こだわり高校野球東京都名選手列伝>(23)保坂英二

保坂英二/ほさか・えいじ
(左投左打・日大一−東映−日拓−日ハム)

 1963年、全国高校野球選手権東京大会の参加校数は160を突破。北海道をも越えるマンモス地区となり、参加チームは実に9試合を戦わなければ甲子園に出ることはできなかった(シード校は4回戦からスタートしていたが)。「北海道が南北2代表制なのに対し東京が1代表なのは不公平だ」という不満の声も高まり、これを解消するために1974年からは東京も東西2地区制となる。

 その分割される直前の東京大会において最も強かったのが日大一。63年に初優勝を果たすと、68年から71年は4連覇。攻守に高いレベルのチームを毎年作り、各球界にも人材を輩出した。

 保坂英二は日大一の黄金期を彩った選手の一人だ。169センチと小柄ながら左腕から放る剛球は球威抜群、1年生から公式戦のマウンドを経験し、69〜71年の決勝はいずれも先発出場している。しかし晴れの甲子園ではわずか1勝しかできず、“夏に弱い東京勢”の象徴ともなった。このページでは、東京大会に重点を置きつつ保坂の足跡を記していきたいと思う。

◇1年夏、堀越・但田との投げ合い◇

 69年夏、2連覇を狙う日大一は準決勝で堀越と対戦。相手は左腕エース但田裕介(阪神)を擁しセンバツ準優勝したチームで、事実上の決戦だった。

 この大一番で、日大一の三沢信明監督は先発に1年生の保坂を起用。立ち上がりこそ四球から失点を許すものの、その後は但田と投手戦を繰り広げ、9回の逆転勝利を呼び込んだ。

 決勝は保坂−小山のリレーで聖橋を完封し、8−0の圧勝。日大一は2年連続の甲子園を果たす。

 1回戦の東洋大姫路戦は小山が完投勝利。続く静岡商戦で再び保坂の出番がやってくる。1点差で迎えた6回、3番・藤波行雄(中大−中日)を抑えるべくマウンドへ。左対左のワンポイントリリーフだったが、結果は内野安打に終わり追加点を奪われてしまう。8回にも同じ場面で藤波に二塁打を浴びだめ押しの3点目、結局試合は1−3で敗れた。

◇2年夏、1試合17奪三振の快投◇

 70年夏、保坂はエース格に成長。左腕からの球威は増し、春季大会の桐朋戦では21奪三振を記録。選手権東京大会でも快投し、準決勝まで駒を進める。相手は兄弟校の日大三。エースは同じ2年生左腕の渡部良克(日大)で、この春のセンバツで完封も記録した好投手。

 初回、保坂は先頭打者にいきなり三塁打を打たれ、次打者のスクイズを外したものの伊藤裕啓捕手(明大−朝日生命)が悪送球して1点を先制される。その後は投手戦が続いたが、8回に保坂自らタイムリーを放ってようやく追いつくと、延長10回表に伊藤がバックスクリーンに達するホームランを放って勝ち越し。2−1でライバルを振り切った。

 早稲田実との決勝も小池との投手戦になったが、保坂が走者を背負いながらも動じず投げて完封。打線も6回のワンチャンスに2点をもぎとり3連覇を決めた。

 2度目の甲子園の初戦、保坂の快速球は冴え渡った。都城に対し毎回、全員の17奪三振。5回には自ら三塁打を放って先制のホームを踏むなど保坂の一人舞台だった。

 しかし、大分商との2回戦では別人のように乱れてしまう。2回に無死満塁のピンチを招くと、三塁牽制の動作がボークと判定されて先制を許す。その後も4回にも一死満塁から死球と暴投で2点を失うなど、独り相撲で5失点。1回戦後に補欠選手が宿舎で急死した事件がナインに影響したのか、打線も不調でチャンスをつぶし、2−5で敗戦した。

◇3年夏、伏兵・磐城に屈す◇

 そして迎えた1971年、最後の夏。センバツではエース渡部の活躍で日大三が優勝し、夏も当然優勝候補。日大一は保坂は安定しているものの打線が低調で、4連覇は危ぶまれていた。

 初戦(4回戦)の日大鶴ヶ丘戦こそ10−0と大勝したが、続く都昭和、佼成学園、日大二は接戦続き。保坂が4試合で56奪三振と力投し、どうにか準決勝までこぎつけた。

 相手は宿敵、日大三。渡部はここまで14イニングしか投げず余力充分の登板。対する保坂は30イニングと殆どを投げている。だが疲労がプラスに作用した。荒れ気味ながら球威抜群の保坂に対し、投げ込み不足の渡部は後半球速が鈍り日大一につかまる。5回、鳥谷部好夫の三塁打で均衡を破ると、6回、8回の2本塁打で渡部をノックアウト。保坂は投げるほどに調子を上げ、結局1安打完封。終わってみれば7−0の大勝で日大対決を制した。

 決勝は前日の勢いで二松学舎大付を粉砕。打線がヒット21本を浴びせれば、保坂も13三振を奪い12−2と大勝。戦前に慶応普通部が作った6連覇に次ぐ4連覇を成し遂げたのである。

 勇躍乗り込んだ甲子園では、PL学園と並び優勝候補の双璧。2回戦で福島の磐城と対戦が決まった時、誰もが日大一の勝利を疑わなかった。
 しかし、試合は重苦しい展開となった。田村隆寿投手(日大−ヨークベニマル)は小柄ながら投球術に長け、牽制も巧みだった。日大一は2回に2度二盗を失敗することでリズムが狂い、以後田村投手のペースにはまっていく。

 保坂は3回に2死から四球を与え一、二塁のピンチ。次打者の宗像治(早大)が流し打ちでライトへ運んで1点を先制。打線は反撃しようにも田村のコーナーワークの前に連打が出ない。また外野手のポジショニングも的確で、伊藤らクリーンアップの打球はことごとく打ち取られる。保坂はエンドランなどの揺さぶりをしのいで投げ続けるものの、その後も味方の反撃なく、0−1のまま試合終了。日大一の甲子園は、この年もあっけなく終わった。

 卒業後は東映に入団したが、実働7年で0勝0敗。引退後は日ハム打撃投手を84年まで務めた。現在は少年野球の指導を行っている。

全国大会戦績

戦績 対戦相手 打撃成績 投手成績
1969年夏
2回戦
1回戦 東洋大姫路 ○3−1 出場なし 登板なし
2回戦 静岡商 ●1−3 1打数0安打 2/3回2安打 自責0  奪三振1 四死球0
1970年夏
2回戦
1回戦 都城 ○2−0 3打数2安打 9回3安打 自責0 奪三振17 四死球6
2回戦 大分商 ●2−5 4打数0安打 9回6安打 自責4 奪三振6 四死球9
1971年夏
2回戦
2回戦 磐城 ●0−1 3打数2安打 9回4安打 自責1 奪三振11 四死球6
総合成績 11打数4安打 打率0.364 27 2/3回 自責5 防御率1.63

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