高橋は早実在学中に6度の全国大会に出場、2度の準優勝を経験している。その戦いは、のちに東京六大学野球やプロで活躍するスター候補たちとの死闘の連続だった。
1924年、名古屋八事・山本球場で行われた初のセンバツに出場し、準優勝。当時は不動のエース水上義信(早大−電通)がいたため、高橋は三塁を守っていた。同年夏も東京のリーグ戦を勝ち抜き、完成したばかりの甲子園に乗り込むが、初戦で怪物打者・山下実(慶大−阪急他)のいる第一神港商に水上、高橋が粉砕され5−11で敗退。
翌年、高橋は水上からエースの座をひきつぎ、夏の甲子園に戻ってくる。早実は高橋−平山清太郎のバッテリーを軸に、堅い守備とねばり強い打撃を身上としていた。
初戦は不世出の大左腕・小川正太郎(早大)を擁する和歌山中。もっとも、この時小川はまだ2年(旧制中学は5年制)で右翼兼控え投手、エースは野田清之助だった。早実は野田に1安打に抑えられながら、8回に1点を奪って辛勝。続いて松木謙治郎(明大−阪神)の敦賀商を11−4と大差で下し、準決勝へコマを進めた。相手は三番・一塁手の山下が健在の第一神港商。大会屈指の打棒を揃えた強敵だった。
7万5千人の観衆を集めた甲子園は熱戦に沸いた。初回、早実は積極的に神港エース町田重信(早大)を攻めて2点を先取。高橋は2回に3点を奪われるが、以後は落ち着いた投球で強力打線を封じた。4回に七里正夫、平山のエンドランで同点とすると、6回に1点を加え勝ち越し、4−3で勝利。神港は猛追をかけるが5回無死満塁で無失点に終わるなど、高橋に翻弄された。
反対側のブロックを勝ち上がったのは因縁の相手・高松商。宮武三郎(慶大−阪急他)・本田竹蔵(関大)の二枚看板、三塁には3年の水原茂(慶大−巨人)ら好選手を揃え、余裕のある戦いぶりで決勝までやってきた。高橋は2回に一挙5点を奪われたものの、しぶとく食い下がった。宮武の速球をとらえてついに8回に降板させ、代わった本田に対し七里が3ランを放ち2点差に追いつく。しかしそれ以降は軟投派の本田をとらえきれず、3−5で勝負は決した。
翌年も高橋は主将として春夏連続で甲子園の土を踏むが、いずれも上位に進むことはできなかった。春は柳井中に初戦負け、夏は再び柳井中と対戦して全員奪三振で完封するも2回戦で静岡中に敗退。二番手の小林政綱を登板させたことがあだとなり、打線もまだ3年で、“少年投手”と呼ばれた上野精三(慶大)に抑え込まれてしまった。
敗戦後、高橋は静岡中の宿舎を訪れ各校の詳細なデータを渡したが、これが同校の全国制覇に役立てられたという。
早大でも野球部に所属し、その後出征し戦死。現在、野球体育博物館の戦没野球人モニュメントに、その名が刻まれている。
戦績 | 対戦相手 | 打撃成績 | 投手成績 | ||
1923年夏 ベスト8 |
1回戦 | 横浜商 | ○5−1 | 出場なし | 登板なし |
2回戦 | 愛知一中 | ○6−4 (延長11回) |
出場なし | 登板なし | |
準々決勝 | 甲陽中 | ●1−6 | 出場なし | 登板なし | |
1924年春 準優勝 |
1回戦 | 松山商 | ○3−2 | 詳細不明 | 登板なし |
準決勝 | 市岡中 | ○6−5 | 詳細不明 | 登板なし | |
決勝 | 高松商 | ●0−2 | 詳細不明 | 登板なし | |
1924年夏 1回戦 |
2回戦 | 第一神港商 | ●5−11 | 詳細不明 | 詳細不明(交代完了) |
1925年夏 準優勝 |
2回戦 | 和歌山中 | ○1−0 | 詳細不明 | 9回3安打 自責0 奪三振3 四死球7 |
準々決勝 | 敦賀商 | ○11−4 | 詳細不明 | 詳細不明(途中) | |
準決勝 | 第一神港商 | ○4−3 | 詳細不明 | 9回4安打3失点 奪三振5 四死球8 | |
決勝 | 高松商 | ●3−5 | 詳細不明 | 9回8安打5失点 奪三振6 四死球0 | |
1926年春 2回戦 |
1回戦 | 島根商 | ○1−0 | 詳細不明 | 9回6安打 自責0 奪三振15 四死球2 |
2回戦 | 柳井中 | ●1−3 | 詳細不明 | 9回6安打3失点 奪三振8 四死球3 | |
1926年夏 2回戦 |
1回戦 | 柳井中 | ○3−0 | 詳細不明 | 9回1安打 自責0 奪三振15 四死球3 |
2回戦 | 静岡中 | ●2−9 | 詳細不明 | 詳細不明(交代完了) | |
総合成績 | 詳細不明 |