元号が平成に変わったばかりの1989年センバツ。帝京は全国制覇を狙って甲子園に乗り込んだ。前チームからバッテリーを組む吉岡雄二−井村清治が残り、秋季大会では打線も好調。とりわけ本格派右腕で4番をつとめる吉岡は投打ともに注目された存在だった。
しかし、フタを開ければ初戦で報徳学園に6−7の逆転負け。吉岡は力で頼る投球が災いし、高めに浮いた速球を狙われ7失点。打線も蒲生弘一の先頭打者本塁打が飛び出したことで大振りのスイングが多くなり、報徳エース甲元訓(本田技研鈴鹿他)のカーブ、シュートにかわされてしまう。それでも8回に吉岡が3点本塁打を放ち、強力打線の片鱗は見せた。
再起を誓った吉岡だったが、6月練習中に左足首を捻挫し、不調のまま夏の大会に臨むことになる。右翼手・池葉一弘(東洋大−NTT東京−NTT東日本)の救援を何度も借りながら、好調な打線に助けられて東東京大会を勝ち進み、決勝では岩倉との打撃戦を制して夏の甲子園に戻ってきた。
吉岡は悲願の全国制覇に向けて投打にフル回転した。初戦の2回戦、米子東を完封。186センチの長身から放つ140キロ台の速球で相手打線を抑え込んだ。準決勝の秋田経法大付戦は2度目の完封。前の2試合は池葉のリリーフをあおいだものの、投げるごとに吉岡の投球は安定感を増していた。
決勝戦は仙台育英・大越基(ダイエー)との投げ合いになった。両チームともゼロ行進のまま試合は進み、吉岡は何度も走者を許しながらその度に踏ん張った。9回2死三塁のピンチも次打者を一飛に打ち取って延長戦へもつれこむと、直後の10回表、帝京は1死二、三塁のチャンスで鹿野浩司(ロッテ)が値千金の2点タイムリー。その裏の育英の反撃を吉岡が抑えきり、見事初優勝の栄冠を掴んだ。
動画・1989年夏の甲子園の吉岡投手(打者のシーンはありません)
夏の甲子園で41イニング1失点の快投を見せた吉岡だが、「マウンドでは苦しい思い出しかない」と巨人入団後は野手に転向。97年に移籍した近鉄で打撃の才能を開花、1999年に初めて規定打席に到達し、2001年には26本塁打を放ち“いてまえ打線”の一員として活躍、リーグ優勝に貢献。
05年からはチームの解体にともない楽天に移籍。08年秋に戦力外通告を受け、翌年からはメキシカンリーグのヌエボラレド・オウルズに入団している。
戦績 | 対戦相手 | 打撃成績 | 投手成績 | ||
1989年春 1回戦 |
1回戦 | 報徳学園 | ●6−7 | 4打数1安打3打点 1本塁打 | 8回12安打 自責4 奪三振8 四死球2 |
1989年夏 優勝 |
2回戦 | 米子東 | ○3−0 | 3打数3安打1打点 | 9回5安打 自責0 奪三振7 四死球1 |
3回戦 | 桜ヶ丘 | ○10−1 | 5打数2安打2打点 1本塁打 | 7回4安打 自責1 奪三振8 四死球4 | |
準々決勝 | 海星 | ○11−0 | 5打数2安打5打点 1本塁打 | 6回3安打 自責0 奪三振6 四死球0 | |
準決勝 | 秋田経法大付 | ○4−0 | 4打数2安打 | 9回2安打 自責0 奪三振10 四死球1 | |
決勝 | 仙台育英 | ○2−0 (延長10回) |
5打数0安打 | 10回9安打 自責0 奪三振9 四死球3 | |
総合成績 | 26打数10安打 打率0.385 | 49回 自責5 防御率0.92 |