早実OBの宮井勝成が母校の監督に就任したのは1955年9月のこと。間の悪いことに、直後の秋季大会1回戦で並木輝雄(阪神−東京)擁するライバル日大三に0−6の惨敗。OB達につるし上げを食らう中、宮井は「来年入学する王という投手がやってくれると思う」と弁解したという。入学前の選手をがアテにするほどだから、王の逸材ぶりがうかがえる。
その少年は当初から異彩を放っていた。左打席からライトのフェンス越えを軽々と連発する打撃に宮井は目をつけ、5番に据える。当時の早実は3番醍醐猛夫(毎日−大毎−東京)、4番徳武定之(早大−国鉄−サンケイ−中日)という重量級の打線を誇り、王は入学早々その中軸の一角を担うことになる。
投手としての起用も早かった。入学1ヶ月後の5月3日、春季東京都大会決勝。センバツ帰りの日大三に対して「5番投手」の大抜擢。王はこれに見事に応えて3安打完封、4−0で勝利し、その勢いで関東大会も制覇した。
迎えた夏の東京大会、王は都新宿戦でノーヒットノーランを達成する好調ぶり。ところがライバル日大三は準決勝で伏兵成蹊に2−3でまさかの敗退。早実は13−1で成蹊を降し、甲子園への切符をつかんだ。
1回戦で新宮に勝ち、迎える2回戦の相手は大会ナンバーワン左腕の清沢忠彦(慶大−住友金属)擁する岐阜商。「まず勝てる相手ではない」と考えた宮井監督は、エース大井孝夫ではなく王を先発させる。
王の荒れ球にかけた作戦であったが、この時は裏目に出た。立ち上がり硬くなった王は先頭から3四球を与え1点を失い、3回で左翼に退いた。8回に清沢から右中間を破る三塁打を放って打者の意地を見せたが、結局試合は1−8の惨敗に終わった。
57年センバツ、王は2年生エースとして快投を見せ、優勝の原動力になった。振りかぶらないノーワインドアップから投げることで制球力が向上、四球で崩れることがなくなったのである。
このノーワインドアップだが、56年のワールドシリーズで完全試合を達成したドン・ラーセンからヒントを得た……と多くの書籍に書かれている。しかし王は同年秋の東京都大会からこの投法を使用していた。
明大の練習に参加した時、同じ左腕の関口一郎(大洋)が振りかぶらずに投げていたことがきっかけだった。また早実の先輩である久保田高行の指導もあって、ノーワインドを自分のものにしたのだという。
参考文献:不滅の高校野球(上) 栄光と感激のあと
さて57年のセンバツ、王は不安要素を抱えていた。大会前の投げ込みで人差し指にマメを作り、それを潰してしまったのだ。この傷が完治しないまま大会が始まる。
早実は2回戦の寝屋川戦からスタート。右の技巧派・島崎武久にてこずったものの、5回に堀江康亘(早大)がタイムリー、王がその1点を守りきって完封勝利。
準々決勝は遠井吾郎(阪神)を擁する柳井と対戦。王は3回に先制の二塁打を放つと、投げてもテンポ良く無四球で連続完封。しかし、この試合でさらに中指のマメを潰してしまう。
準決勝の久留米商戦、一球投げただけで王には激痛が走る。ユニフォームには点々と血がつき、ボールもまた血染めであった。打線は奮い立って6点を奪い、王はまたも完封。痛みによって全力投球ができないために力まないピッチングができたのが完封の要因だと、王は後に語っている。
迎えた決勝戦、相手は大会屈指の左腕・小松俊宏(巨人)がエースの高知商。実は小松も血豆をつぶしながら投げていた。さらには早実の三番・内山巌は準決勝後に過労と高熱で病院に行っている。両者とも手負いで決勝に挑んでいた。
1回表、早実の攻撃。病院から戻った内山がレフト前ヒット。四番の王はレフトの頭上を越える二塁打で先制、さらに柿崎弘一もセンター前タイムリーで、一挙2点を先取した。その後も小刻みにヒットを浴びせて5点のリード、王は速球と大きなドロップを駆使して5回をパーフェクトピッチング。8回裏に高知商の猛追で3点を奪われるものの、そのまま逃げ切り5−3で優勝。新聞は王、小松の痛々しい左手を掲載し、両者の健闘をたたえた。
動画:高知商との決勝戦
春夏連覇のかかった同年夏。初戦はセンバツでも対戦した寝屋川。王は延長11回をノーヒットノーランに抑え1−0で勝利。投球数136のうちカーブはわずか11球、力のある速球で押しての大記録達成だった。
準々決勝の相手は格下と思われた法政二。初回、王が先制打を放って幸先よしと思われたが、法政二のリリーフ・青木武文(駒大)が思わぬ好投で流れを変えてしまう。左のサイド気味から投げる大きなカーブが早実打線を翻弄、長打が出ても連打できない。法政二は王の速球に食らいつき、3回に2点を奪い逆転。ゲームはそのまま動かず、春夏連覇の夢は断たれてしまった。
この年の秋、早実は国体の出場権を得た。だが王は台湾籍のために試合に出場できない。彼は黙ってルールを受け入れ、ベンチで仲間に声援を送り続けた。
翌58年、早実は春2連覇をかけてセンバツに出場。3番エースの王は御所実戦、済々黌戦で2試合連続本塁打。しかもいずれも左投手からと、後のホームランキングを予感させるものだった。だが投球はふるわず、5−7で済々黌に逆転負け。
5季連続出場のかかった58年夏は、東京大会決勝で明治と対戦。お互いセンバツに出場し、早実がベスト8で明治はベスト4。どちらが代表となってもおかしくない力を持っていた。
戦績 | 対戦相手 | 打撃成績 | 投手成績 | ||
1956年夏 2回戦 |
1回戦 | 新宮 | ○2−1 | 4打数1安打 | 登板なし |
2回戦 | 岐阜商 | ●1−8 | 2打数1安打 | 詳細不明(途中降板) | |
1957年春 優勝 |
2回戦 | 寝屋川 | ○1−0 | 4打数0安打 | 9回1安打 自責0 奪三振10 四死球3 |
準々決勝 | 柳井 | ○4−0 | 4打数2安打 | 9回5安打 自責0 奪三振11 四死球0 | |
準決勝 | 久留米商 | ○6−0 | 5打数1安打2打点 | 9回4安打 自責0 奪三振6 四死球0 | |
決勝 | 高知商 | ○5−3 | 3打数1安打1打点 | 9回6安打3失点 奪三振7 四死球4 | |
1957年夏 ベスト8 |
2回戦 | 寝屋川 | ○1−0 (延長11回) |
3打数0安打 | 11回無安打無得点 奪三振8 四死球4 |
準々決勝 | 法政二 | ●1−2 | 2打数1安打 | 8回5安打2失点 奪三振6 四死球1 | |
1958年春 ベスト8 |
2回戦 | 御所実 | ○4−3 | 4打数1安打2打点 1本塁打 | 9回5安打3失点 奪三振5 四死球2 |
準々決勝 | 済々黌 | ●5−7 | 3打数2安打2打点 1本塁打 | 詳細不明(途中降板) | |
総合成績 | 34打数10安打 打率0.294 | 詳細不明 |