司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」。NHKでドラマも始まり、毎週日曜が待ち遠しい方もいると思います。
さて、この作品は日露戦争を日本の勝利に導いた軍人・秋山真之を主役にしているわけですが、同時代には偉大な野球人もいることを皆さんご存じでしょうか。
それは早大野球部の初代部長だった安部磯雄です。当時弱小だった早大を米国遠征で鍛え上げ、数々の技術を持ち帰り全国に広めました。現在のワセダばかりか野球界の基礎を作った人物であり、晩年には政界にも進出した、非常にエネルギッシュな人物なのです。
秋山は1868年生まれ。安部は1865年生まれ。ジャンルは違えど日本の発展に寄与した二人。ここでは、二人の足跡を比較し、ひょっとしたら接点があったかも、などと妄想してみます。
安部磯雄 | 秋山真之 | |||
1865年 (元治2) |
0歳 | 福岡市に生まれる。父は福岡藩士岡本権之丞 | ||
1868年 (慶応4) |
3歳 | 0歳 | 松山市に生まれる。父は松山藩士秋山久敬 | |
1879年 (明治12) |
14歳 | 師範学校付属小を卒業 同志社英学校(現同志社大)に入学 |
11歳 | 松山中学(現松山東高)に入学 |
1882年 (明治15) |
17歳 | 新島襄から洗礼を受ける | 14歳 | |
1883年 (明治16) |
18歳 | 15歳 | 松山中学を中退、兄の好古を頼って上京 | |
1884年 (明治17) |
19歳 | 同志社英学校を中退 | 16歳 | 東京大学予備門に入学 |
1886年 (明治19) |
21歳 | 村上駒尾と婚約 この頃同志社に復帰し教員に |
18歳 | 予備門を中退、海軍兵学校に入学 |
1887年 (明治20) |
22歳 | 岡山教会に赴任 | 19歳 | |
1890年 (明治23) |
25歳 | 22歳 | 海軍兵学校を卒業、海軍軍人となる | |
1891年 (明治24) |
26歳 | コネチカット州のハートフォード神学校に洋行 テニスに熱中する |
23歳 | トルコ軍艦の生存者送還に従事 |
1892年 (明治25) |
27歳 | 24歳 | 海軍少尉 | |
1894年 (明治27) |
29歳 | ベルリン大学留学 | 26歳 | 日清戦争に従軍 |
1895年 (明治28) |
30歳 | 洪水で被害を受けた岡山教会を再建するため帰国 布教活動を経たのち同志社大教授に |
27歳 | |
1897年 (明治30) |
32歳 | 29歳 | 米国留学、ワシントンに滞在 | |
1899年 (明治32) |
34歳 | 東京専門学校(現早大)講師となる この頃から社会主義運動に参加 |
31歳 | 英国駐在武官となり、イギリスを視察 |
1901年 (明治34) |
36歳 | 社会民主党結成(日本初の社会主義党)するも、 すぐに解散を命じられる 早大野球部を創設 |
33歳 | 海軍少佐 |
1902年 (明治35) |
37歳 | 早大の体育部長に就任、 野球部を含めたスポーツ全般を運営する 大隈重信を説得し、戸塚に野球場を建設 |
34歳 | 海軍大学校教官就任 |
1903年 (明治36) |
38歳 | 最初の早慶戦開催。9-11で早大の敗戦 | 35歳 | 稲生季子と結婚 |
1904年 (明治37) |
39歳 | 第二回早慶戦にて早大が13-7で勝利 日露戦争に関して非戦論を唱える |
36歳 | 日露戦争勃発。海軍中佐 |
1905年 (明治38) |
40歳 | 団長として早大野球部の米国遠征を引率 4月から6月の3ヶ月で26試合 |
37歳 | 作戦担当参謀として、日本海海戦の勝利に貢献 |
1906年 (明治39) |
41歳 | 応援団の対立問題により早慶戦が中止 | 38歳 | |
1907年 (明治40) |
42歳 | 飛田穂州を早大主将に据える 早大講師から教授となる 早大、ハワイチームと対戦し3連敗 |
39歳 | ハワイチームと対戦する慶大野球部を激励するべく、 「褌論」の書簡を送る |
1908年 (明治41) |
43歳 | 二度目の米国遠征を引率 6月から8月の3ヶ月で25試合 |
40歳 | 海軍大佐に |
1910年 (明治43) |
45歳 | 米国大学球界の強豪シカゴ大と招待試合を開催し 6戦全敗。責任を感じた飛田が引退 |
42歳 | |
1912年 (明治45) |
47歳 | 嘉納治五郎らと大日本体育協会を設立 | 44歳 | 海軍軍令部参謀、海軍大学校教官兼任 |
1913年 (大正2) |
48歳 | 45歳 | 海軍少将 | |
1914年 (大正3) |
49歳 | 46歳 | シーメンス事件(海軍収賄事件)の処理にあたる | |
1916年 (大正5) |
51歳 | 48歳 | 第一次世界大戦視察のため欧州へ | |
1917年 (大正6) |
52歳 | 49歳 | 帰国。盲腸炎が悪化し、病気療養 海軍中将 |
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1918年 (大正7) |
53歳 | 50歳 | 腹膜炎を併発、死去 | |
1919年 (大正8) |
54歳 | 新聞記者だった飛田を早大初代監督に招聘 | ||
1921年 (大正10) |
56歳 | 四度目の米国遠征を引率、シカゴ大に初勝利 4ヶ月で29試合をこなす |
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1925年 (大正14) |
60歳 | 野球部合宿所を建築(後の安部寮) 復活した早慶戦に立ち会う |
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1926年 (大正15) |
61歳 | 早大野球部部長を辞任 社会民衆党の委員長となる |
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1928年 (昭和3) |
63歳 | 早大教授を辞任 日本初の普通選挙にて当選、政界に乗り出す (以降、細かい政治活動は割愛) |
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1930年 (昭和5) |
65歳 | 東京六大学野球連盟初代会長に就任 | ||
1946年 (昭和21) |
81歳 | 日本学生野球協会初代会長就任 | ||
1949年 (昭和24) |
84歳 | 死去 | ||
1959年 (昭和34) |
- | 日本野球殿堂特別表彰 |
二人の共通点
(1)生まれは貧乏
二人とも実家は藩士でしたが、明治維新の後なので貧乏でした。
(2)支援者の存在
秋山は兄の好古の援助があって勉学が続けられました。
安部も、義兄(姉の夫)である浅香竜起のすすめで同志社英学校に進んだと言われています。
才能も磨くチャンスがなければ無駄になる、と考えると、二人は非常に恵まれているといえます。
また、浅香は安部を海軍軍人にしたかったというのも、非常に面白い話です。
(3)海外留学
秋山はアメリカ、イギリス。安部はアメリカ、ドイツ。
ともに海外での体験は大きな刺激になったのではないでしょうか。
(4)外国との対決
秋山は言うまでもなく日露戦争が人生のハイライトです。
安部も早大野球部を鍛え、アメリカのレベルに追いつこうと懸命でした。
いずれも大敵に立ち向かっていったわけです。
お互いを知ってる可能性(完全なる妄想です)
まず秋山が安部を知っていたかどうかですが、可能性はないことはないと思います(微妙)。
日露戦争のおり、安部の所属する社会主義教会の発行する「平民新聞」は「非戦論」を唱えています。これが安部の個人名が入ったものだとしたら、そして秋山がそれを読んだとしたら……名前が記憶されるかもしれません。
また、1907年(明治40)に、ハワイのセントルイス野球団が来日し、早大・慶大と対戦していますが、秋山はこの試合を「毎日のように」観戦していたといいます。この時慶大を激励するべく送ったのが「褌論」なる書簡です。
予備門時代は正岡子規とともに野球にふけり、ひとかどの軍人になってからも観戦するフリークぶり。とすれば、慶大のライバルである早大野球部部長の名前を聞いたことくらいはあるかもしれません(その頃早慶戦はやっていませんけれども)。
逆に安部が秋山を知ってる可能性は、低いような気がします。安部からすると秋山は一軍人ですから。「坂の上の雲」が書かれるまでは世間的にはマイナーな人物だったと言いますし。
学生時代の接点も考えにくい。安部は京都の同志社、秋山は東京の予備門→海軍兵学校です。
会ったことがあるかどうか……となると、これはもうフィクションの世界ですね。
しかし、会ったとなれば論争になりそうな気がします。かたや、日露戦争下にありながら野球部を遠征に連れて行く大学教授、しかもキリスト教徒で社会主義者。かたや、慶大ファン(おそらく)の軍人。
いったいどんなことをしゃべるんでしょうね。