前代未聞の珍事だった。1939(昭和14)年夏、帝京商は全国中等学校野球優勝大会の東京予選で日大三中を破って優勝しながら、甲子園出場を辞退することになったのだ。事の起こりには、のちの大投手が関わっていた。
その投手とは、後にフォークボールで名を馳せた杉下茂。しかし当時は高等小学生。つまり「帝京商業の学生でない選手を連盟に登録させずベンチに入れていた」ことが問題となったのである。
が、杉下本人はこう反論している。
「高等小学校から帝京商に入学後、休学届を出して一学期だけ高小に行かされた。あとで聞いた話では両校の話し合いでそうなったのだという。大会前にはちゃんと帝京商に復学していた」
(松尾俊治著『不滅の高校野球(上)より抜粋』)
そもそもは杉下が入学した一ツ橋高等小学校から申し出たことだった。「東京市内の高等小学校の軟式野球大会に出場するので、おたくの一年生の杉下をお借りしたい」……この奇妙な申し出を帝京商が受け入れてしまう。
当時の杉下は1メートル71センチ、群を抜いた長身から投げられる速球を誰も打てるはずがなく、一ツ橋高等小学校は見事に優勝する。
(ただし当時の杉浦は下手投げだったという文献もあるので、長身を利した速球であったかどうかは疑問符がつく。高等小学生にしては速かった、という程度かもしれない)
その後、杉下は約束通り帝京商に復学し、今度は中学校の野球大会に出場。ただし本人はベンチに座っていただけで、チームの優勝に貢献することはなかった。
しかし準優勝した日大三中がクレームをつけたことで事件が起きる。「一ヶ月前まで高等小学校のエースだった選手が帝京商のベンチにいるのはおかしいではないか」
ただの小学生なら日大三中が文句を付けることもなかったかもしれない。だが杉下の長身と大会での活躍があだとなり、問題が発覚してしまったのだ。
帝京商側に弁解の余地はなく、選手資格違反であえなく出場辞退することとなった。連盟への登録があいまいだったために起こった悲劇。後味の悪さからか、日大三中も繰り上げ出場を辞退し(日大三中にも選手資格違反があったという説もある)、結局ベスト4の早稲田実業が東京代表として甲子園に出ることになった。
仲間に随分とうらまれたという杉下。だがしかし、大人たちの思惑に翻弄されたという点では杉下もまた被害者だった。一時期は不登校に陥った時期もあったが、天知俊一監督の説得により復帰。その後は故障続きでチームに貢献することはできなかった。
1942年、文部省主催の「まぼろしの甲子園」予選でも準優勝に終わり、翌年から大会自体が中止となる。
苦い思い出を残した帝京商時代だったが、幸運な出会いもあった。終戦後、社会人のヂーゼル自動車(現いすゞ自動車)で投げていた杉下は天知俊一と偶然にも再会。
軍隊の手榴弾投げで鍛えた杉下が見違えるほどの速球を投げていたことに天知は驚き、母校の明大へ入学することを薦める。野球部で天知の指導を受けた杉下は代名詞となるフォークボールを修得し、プロ入りした中日でも快投を続け大投手へと大成した。