名門・早稲田実業学校野球部における全国大会優勝投手は? この問いにあなたはどう答えるだろうか。王貞治(1957年春)、斎藤佑樹(2006年夏)はいずれも正解である。しかしもう一人、歴史に埋もれた優勝投手、水上義信がいる。
1924年第1回センバツで準優勝。同年秋の第1回明治神宮競技大会で優勝。投球スタイルなど詳しいことはほとんどわからないが、バッテリーを組んだ神山輝男は「スピードがあり抜群のコントロールをしていた」と語っている。水上は、早実エースとして初めて甲子園のマウンドを踏みしめた男でもある。
初の全国大会出場は1922年夏。この時は「8番・遊撃」で出場し、初戦で和歌山中に0−8と大敗している。和歌山中はこの後史上初の2連覇を達成。舞台が甲子園ではなく鳴尾球場の時代だった。
翌1923年、エースとなった水上は東京大会を制し、再び鳴尾へ。横浜商、愛知一中を降してベスト8へコマを進めるが、初出場の兵庫・甲陽中に1−6でまさかの敗退を喫した。
水上が最上級生となった1924年、毎日新聞社の主催により、初めての選抜野球大会が開催された。過去の成績などを考慮して選ばれたのはいずれも中等野球を代表する強豪8チーム。4番エースの水上を擁する早実も選出され、名古屋八事(やごと)の山本球場に乗り込んだ。
1回戦の相手は松山商。両軍3回までゼロ行進を続け、降雨によりノーゲームとなった。翌日の再試合、松山商エース中村国雄(明大)は前日の投球で肩を痛めてわずか1回で降板、捕手の森本茂(法大)がリリーフに。控え捕手の弱肩を見抜いた早実は3安打ながら5盗塁とかき回して3点を奪い、水上が反撃を2点に抑えてセンバツ初勝利を上げた。
さて、同日行われた横浜商−市岡中戦は壮絶な打撃戦の末に13−13で延長14回日没引き分け。翌日の再試合でも21−13で市岡中が振り切るという結末。疲労困憊の市岡中は、日程を延ばさぬために1時間後に早実との準決勝を戦う羽目になった。明らかに早実有利で試合は始まり、5回までに6−1と大量リード。しかしここから市岡中も猛反撃、土肥梅之助のホームランなどで7回に一挙3点。水上は9回にも1点を奪われたが、後続を断って6−5の辛勝。
高松商との決勝戦は、これまでとはうってかわって投手戦となった。水上は村川克己(慶大)の2試合連続となるソロホームランを浴びるなど2失点したが、よく食い止めたというべきか。投げ合った松本善隆(関西学院大)が早実を抑えきったために、センバツ初優勝の夢はかなわなかった。
間の悪いことに、水上は甲子園前の早大との練習で肩を痛めていた。その不調を神港商が見逃すはずもなく、水上はたちまちノックアウト。特に主砲の山下実(慶大−阪急他)はホームランを含む5打数4安打と打棒をいかんなく発揮し、早実を5−11と粉砕した。
この年、甲子園と並ぶ一大運動場の明治神宮競技場(現在の国立競技場)が完成している。これを記念して中等野球を含む競技大会(現在の国体の前身)が開催され、早実も招待されることになった。引退するはずだった水上は、夏の雪辱を晴らすべく神山とのピッチング練習に励んだ。迎えた10月31日、初戦の相手は因縁の第一神港商。水上は山下を抑えて3−2で勝ち、続く愛知一中、松本商も倒し、今度こそ優勝の栄冠を手にすることができた。
卒業後は早大に進み、1925年から始まった東京六大学野球で活躍。その後は中等野球の審判もつとめ、1933年夏の中京商−明石の延長25回の球審としても知られる。一時期雨宮姓に改姓。昭和38年逝去。
戦績 | 対戦相手 | 打撃成績 | 投手成績 | ||
1922年夏 1回戦 |
1回戦 | 和歌山中 | ●0−8 | 詳細不明 | 登板なし |
1923年夏 ベスト8 |
1回戦 | 横浜商 | ○5−1 | 詳細不明 | 9回6安打1失点 9奪三振 2四死球 |
2回戦 | 愛知一中 | ○6−4 (延長11回) |
詳細不明 | 11回11安打4失点 5奪三振 1四死球 | |
準々決勝 | 甲陽中 | ●1−6 | 詳細不明(交代完了) | 詳細不明(交代完了) | |
1924年春 準優勝 |
1回戦 | 松山商 | ○3−2 | 詳細不明 | 9回8安打2失点 6奪三振 0四死球 |
準決勝 | 市岡中 | ○6−5 | 詳細不明 | 9回12安打5失点 1奪三振 3四死球 | |
決勝 | 高松商 | ●0−2 | 詳細不明 | 9回5安打2失点 6奪三振 2四死球 | |
1924年夏 1回戦 |
2回戦 | 第一神港商 | ●5−11 | 詳細不明 | 詳細不明(先発) |
総合成績 | 詳細不明 | 詳細不明 |