1995年夏、帝京は発展途上のチームで東東京大会に臨んでいた。事の起こりは春のセンバツ。強力打線をひっさげながら、1回戦で伊都に0−1の3安打完封負け。「チームをゼロからたたき直す」と前田三夫監督は厳しい姿勢で臨み、時には午前0時を過ぎるほどの練習を課した。それに反発を覚えた主力選手が部を離れたのが6月下旬。帝京は2年生中心の未知数のチームで大会に挑むしかなかった。
その2年生の一人が白木隆之。帝京伝統の右の本格派投手で、重い速球とフォークを武器に好投し、3年生の本家穣太郎(早大−安田生命)との継投で東東京大会を勝ち上がった。打線も4番・桝井功(東芝府中)が5本塁打を放つなど好調で、予選6試合中4試合をコールド勝ち。決勝では早稲田実を乱打戦の末に15−13で振り切り、6度目の優勝を決めた。
甲子園でも帝京は苦しい戦いが続いた。日南学園との初戦(2回戦)は延長11回に及ぶロングラン。帝京は白木−本家−白木−本家−白木と小刻みの継投で相手の追撃を1点にしのぎ、西村吉弘(東洋大)の右中間ヒットでサヨナラ勝ち。続く東海大山形戦でも白木−本家−白木−本家とつないで8−6の辛勝。「猫の目継投」と揶揄されたが、「勝つには二人が投げるしかない」と前田監督は揺るがなかった。
その白木が準々決勝で一変した。相手は同じ東京勢の創価。前年秋、春といずれも都大会決勝で敗れた宿敵に対し、白木はこれまでにない好投を見せる。前半こそ高めに浮いた球を打たれて3失点したものの、後半は速球と変化球をコーナーに決めて無失点に抑え、東東京大会から通じて初の完投。打線も15安打を放って大木一哉投手(法大)を打ち崩し、8−3で快勝した。
この投球で何かをつかんだか、白木は準決勝でもピンチに動じず投げ続ける。積極策で攻めてくる敦賀気比に対し内角の速球が冴え、練習試合を通じて初の完封勝利。
決勝は同じ2年生エース・星稜の山本省吾(慶大−近鉄−オリックス)との投げ合いになった。1回に速球を狙われ1点を先制されると、その後は緩急をつけて相手打線を翻弄。3回、吉野直樹(東芝府中)の逆転打を呼び込むと、8回に中村純(立正大)の左中間二塁打でだめ押し。3−1で夏2度目の優勝を果たした。
動画:1995年夏の甲子園・星稜との決勝
優勝後の帝京は、白木−坂本直之(亜大)のバッテリーの他多くのレギュラーが残り、秋の都大会を圧倒的実力で制覇。明治神宮大会も3試合38得点の猛打で制し、翌年のセンバツでも優勝候補の筆頭に挙げられた。
しかし初戦の岡山城東戦で思わぬ苦戦を強いられる。打線は坂本憲保投手(早大)の巧みな牽制にかかって好機をつぶし、白木は右手中指のマメをつぶして3回途中で降板。リリーフした伴佳生(武蔵大)が好投し5−1とリードしたものの終盤に追いつかれ、9回裏に先頭打者を出すと白木は再びマウンドに。2死三塁までこぎつけたが制球力は戻らず、岡田淳平(関学大)に中越え二塁打を打たれまさかのサヨナラ負け。
動画:1996年春の甲子園・8回からサヨナラ負けまで
そして、雪辱を誓った最後の夏。左足を痛めた白木は満足に調整できぬまま大会を迎え、かつての剛球は戻ってこなかった。打線も去年の破壊力の面影なく、4回戦で東京実に4−5の惜敗。優勝投手の寂しすぎる夏の終わりだった。
卒業後は三菱自動車川崎に進んだが、目立った実績は残せず。クラブチームのWIEN'94でプレーしていたが、2006年で退部している(下記のリンク参照)。
戦績 | 対戦相手 | 打撃成績 | 投手成績 | ||
1995年春 1回戦 |
1回戦 | 伊香 | ●0−1 | 出場なし | 登板なし |
1995年夏 優勝 |
2回戦 | 日南学園 | ○2x−1 (延長11回) |
3打数0安打 | 8回6安打 自責1 奪三振6 四死球3 |
3回戦 | 東海大山形 | ○8−6 | 4打数2安打2打点 | 5 2/3回7安打 自責4 奪三振0 四死球3 | |
準々決勝 | 創価 | ○8−3 | 4打数2安打2打点 1本塁打 | 9回7安打 自責3 奪三振6 四死球2 | |
準決勝 | 敦賀気比 | ○2−0 | 3打数0安打 | 9回9安打 自責0 奪三振5 四死球3 | |
決勝 | 星稜 | ○3−1 | 3打数1安打 | 9回4安打 自責1 奪三振7 四死球3 | |
1996年春 1回戦 |
1回戦 | 岡山城東 | ●5−6x | 4打数1安打1打点 | 3 1/3回5安打 自責1 奪三振2 四死球2 |
総合成績 | 21打数6安打 打率0.286 | 44回 自責10 防御率2.05 |