1982年のセンバツ、東京からは早稲田実と二松学舎大付の2校が選出された。しかし注目されるのは荒木大輔擁する早実のみで、二松学舎は“まず1勝”が目標だった。
そんな目立たぬチームを引っ張ったのが左腕エースの市原勝人だった。初戦、長野を6安打完封すると波に乗り、続く鹿児島商工戦は自らタイムリーを放ち4−3で振り切ると、準々決勝の郡山戦は上位打線が好調で8−3の勝利。早実はこの段階で甲子園を去っている。
準決勝では野中徹博(中日−ヤクルト他)擁する強豪・中京と対戦。中京はこのセンバツで春夏通算100勝を挙げており、そのまま優勝までひた走ると思われた。しかし、試合に入ると市原がまたも好投。野中もまた点を許さなかったが、5回表に失策からまさかの先制を許すと、試合は二松学舎ペースになっていく。市原は3度の牽制アウトを奪うなど巧みなマウンドさばきを見せ、結局中京の反撃を8回の1点のみにとどめて3−1で快勝。“まず1勝”が目標のチームが、まさかの決勝進出を果たしたのである。
対するは、春2連覇を狙うPL学園。史上二度目の東京−大阪対決となった決勝は、思わぬ形で幕を開けた。1回表、試合開始のサイレンが鳴りやまぬうちに、PLの1番佐藤公宏が初球を振り抜き左中間へ飛び込むホームラン。その後もPLは松田竜二のランニング満塁本塁打が飛び出すなど打棒爆発し、市原は大会初めての途中降板を味わった。打線もPL・榎田健一郎(阪急)の快速球の前に上地和彦(阪神)のソロなどで2点を奪うのが精一杯。2−15という記録的な大敗を喫した。
動画:1982年春・PL学園との決勝戦
夏の東東京大会では4回戦で足立(現・足立学園)に4−1で敗戦。
卒業後は日大を経て母校の監督に就任。2002年、2004年にはセンバツに出場するもいずれも初戦敗退。98年、2002〜04年の4度東東京大会で準優勝に終わるなど、“あと1勝”に届かない日々が続いている。
戦績 | 対戦相手 | 打撃成績 | 投手成績 | ||
1982年春 準優勝 |
1回戦 | 長野 | ○3−0 | 2打数0安打 | 9回6安打 自責0 奪三振6 四死球2 |
2回戦 | 鹿児島商工 | ○4−3 | 4打数2安打2打点 | 9回7安打 自責3 奪三振0 四死球2 | |
準々決勝 | 郡山 | ○8−3 | 2打数0安打1打点 | 9回11安打 自責3 奪三振1 四死球3 | |
準決勝 | 中京 | ○3−1 | 4打数2安打 | 9回2安打 自責1 奪三振3 四死球9 | |
決勝 | PL学園 | ●2−15 | 3打数0安打 | 7回10安打 自責8 奪三振0 四死球4 | |
総合成績 | 15打数4安打 打率0.267 | 43回 自責15 防御率3.14 |