芝草宇宙が甲子園に初めてやってきたのは1986年春。この時は2年生で背番号11の控え投手にすぎず、チームも初戦で高知に0−3の完封負けを喫している。
新チームになってから芝草は背番号1を与えられるものの、安定した投球ができなかった。秋季都大会決勝は関東一に3本塁打を浴び、平山勝の救援で何とか逃げ切って優勝。続く明治神宮大会でも3試合先発して1完投のみ。翌年のセンバツ前の評価では、神宮大会で3試合43得点した打線が主に注目されていた。
だが大舞台に上がると、芝草は下馬評を覆す快投を見せる。初戦の金沢戦、8回まで3安打零封し、9回裏に追撃されるものの3−2で完投勝利。続く京都西戦では4安打完封。
準々決勝のPL学園戦は延長にもつれ込んだ。野村弘−橋本清−岩崎充宏と盤石の継投を見せるPLに対し、帝京も芝草−平山−芝草と小刻みにつないで食い下がる。1−2でリードされた9回表、四球を選んだ平山が果敢に二盗を決め、続く大井亨がエンドランを決めて追いついた。
10回表、1死二、三塁と勝ち越しのチャンス。しかしここで帝京はスクイズに失敗し、流れはPLへ。11回裏に芝草がサヨナラ打を浴び、強敵の前に涙を飲んだ。
センバツ後、帝京は投手陣が調子を落とし、春季大会は4回戦で日大一に敗退。特に芝草は背筋を痛めて全く精細を欠き、エースの座も平山に譲っていた。そんな芝草を引っ張ったのが好調の打撃陣。予選決勝までの5試合のうち4試合をコールド、決勝でも修徳を4ホーマーで粉砕し、14−6で春夏連続出場を決めた。
最後の甲子園、芝草は痛み止めを飲みながらマウンドに上がる。1回戦の明石戦を何とか7回まで投げたものの、背筋は治る気配もなく調子は下降線。2回戦の東北戦は最悪のコンディションで先発する。
しかしその痛みが奏功した。とにかく丁寧に球を低めに集めようという意識が幸いし、8四死球を出しながらもノーヒットノーランを達成したのだ。
動画:1987年夏の甲子園・東北との2回戦(2分頃から)
続く横浜商、関西と連続完封。が、エースの復活劇もここまでだった。準決勝のPL学園戦、芝草は投げ込み不足の連投ですでに体は限界。初回に立浪和義(中日)にホームランを浴びるなど、3回までに6点を奪われノックアウト。結局5−12の大敗だった。
動画:1987年夏の甲子園・PL学園との準決勝
甲子園はベスト4に終わった帝京は、10月の沖縄国体に選出される。その準々決勝でPL学園とみたび対戦、見事4−2で勝利すると、続く中京、沖縄水産も撃破して優勝。芝草は最後の最後で優勝投手に輝くことができた。
卒業後は日ハムに入団し先発として活躍。99年からは中継ぎに転向し2001年からの4シーズン連続50試合登板を記録した。05年に自由契約となりソフトバンクに移籍、07年からは台湾球界に移り、この年限りで引退。現在は野球解説者。
戦績 | 対戦相手 | 打撃成績 | 投手成績 | ||
1986年春 1回戦 |
1回戦 | 高知 | ●0−3 | 出場なし | 登板なし |
1987年春 ベスト8 |
1回戦 | 金沢 | ○3−2 | 3打数0安打 | 9回6安打 自責2 奪三振9 四死球4 |
2回戦 | 京都西 | ○3−0 | 1打数0安打 | 9回4安打 自責0 奪三振10 四死球2 | |
準々決勝 | PL学園 | ●2−3x (延長11回) |
4打数0安打 | 10 1/3回4安打 自責1 奪三振7 四死球1 | |
1987年夏 ベスト4 |
1回戦 | 明石 | ○6−1 | 3打数1安打 | 6回6安打 自責1 奪三振7 四死球1 |
2回戦 | 東北 | ○3−0 | 3打数0安打 | 9回無安打無得点 奪三振3 四死球8 | |
3回戦 | 横浜商 | ○1−0 | 2打数0安打 | 9回7安打 自責0 奪三振1 四死球3 | |
準々決勝 | 関西 | ○5−0 | 3打数1安打 | 9回4安打 自責0 奪三振5 四死球1 | |
準決勝 | PL学園 | ●5−12 | 4打数0安打 | 2 2/3回8安打 自責5 奪三振1 四死球0 | |
総合成績 | 23打数2安打 打率0.087 | 64回 自責9 防御率1.27 |