1980年夏、甲子園は一人のアイドル投手に熱狂していた。早実・荒木大輔(ヤクルト−横浜)。1年生ながら44 2/3イニング連続無失点の快投、甘いマスクもあいまって一気に注目される存在となる。この夏は準優勝に終わったものの、そこから5季連続出場。ファンは“大輔フィーバー”に湧いた。
その荒木大輔をバックから支え続けたのが小沢章一。1年生から正二塁手のポジションをつかみ、荒木同様5季連続で甲子園を経験した。1年夏は9番、秋からは1番を任され、切り込み隊長と内野守備の要の役割を存分に果たした。
甲子園には14試合にスタメン出場し、交代したのは1年夏準決勝の瀬田工戦のみ。また無安打は3試合のみとムラのない打撃が特徴だった。鉄壁の守備でも荒木をもり立てたが、5度の甲子園で優勝はできず。1年秋以降は3年春夏のベスト8が最高成績だった。
高校卒業後、早大へ進学するも肩を痛めて1年で現役引退。残る大学3年間を母校のコーチとして過ごし、卒業と同時に私立の千葉英和高校に赴任。87年のことだった。
当時の野球部は1,2回戦止まりの弱小校だったが、小沢監督の指導により躍進する。2年目の88年夏は早くも千葉大会ベスト8に勝ち上がると、以降も断続的に上位に食い込んだ。
だが甲子園には後一歩届かない日々が続く。それに加え、パニック障害とストレスからくる体調不良と戦いながらの監督業。2000年は丸一年自宅療養を余儀なくされ、翌年もベンチではなくスタンドからチームを見守った。
02年は過去最高の千葉大会ベスト4に食い込んだが、これが最後の栄光となった。高校時代甲子園を知り尽くした男は、監督としては甲子園を知らぬまま、平成18年1月肝臓ガンで永眠。享年41歳。
小沢が亡くなった年、偶然にも母校の早実は小沢1年の夏以来26年ぶりの選手権決勝に進出、悲願の初優勝を果たす。
戦績 | 対戦相手 | 打撃成績 | ||
1980年夏 準優勝 |
1回戦 | 北陽 | ○6−0 | 4打数1安打 |
2回戦 | 東宇治 | ○9−1 | 4打数2安打1打点 | |
3回戦 | 札幌商 | ○2−0 | 3打数2安打 | |
準々決勝 | 興南 | ○3−0 | 3打数1安打 | |
準決勝 | 瀬田工 | ○8−0 | 3打数2安打 | |
決勝 | 横浜 | ●4−6 | 3打数1安打1打点 | |
1981年春 1回戦 |
1回戦 | 東山 | ●2−6 | 2打数0安打 |
1981年夏 3回戦 |
1回戦 | 高知 | ○4−0 | 4打数3安打1打点 |
2回戦 | 鳥取西 | ○5−0 | 4打数1安打2打点 | |
3回戦 | 報徳学園 | ●4−5x (延長11回) |
5打数0安打 | |
1982年春 ベスト8 |
1回戦 | 西京商 | ○3−1 | 4打数0安打 |
2回戦 | 岡山南 | ○3−0 | 5打数1安打 | |
準々決勝 | 横浜商 | ●1−3 | 3打数1安打 | |
1982年夏 ベスト8 |
1回戦 | 宇治 | ○12−0 | 6打数2安打2打点 1本塁打 |
2回戦 | 星稜 | ○10−1 | 5打数2安打2打点 | |
3回戦 | 東海大甲府 | ○6−3 | 4打数3安打 | |
準々決勝 | 池田 | ●2−14 | 2打数1安打 | |
総合成績 | 64打数23安打 打率0.359 |